昭和46年06月25日 朝の御理解



 御理解 第72節
 「人間を軽う見な。軽う見たらおかげはなし。」

 先日、玄潮を見せて頂いた。玄潮ね、皆さんももう読まれたでしょう。その或る記事の中に、ここの所がいつも私が言っておる、これはまあ私だけが言っておるんだと思うて居ったら、玄潮に書いておる人が私が言っているような事を書いとられるのを見たんですがね、「人間を軽う見な。軽う見たらおかげはなし」と教祖様はこのように断言しとられると言う事なんです。私もここん所をいつもそういうふうに申しますね。断言しとられるもう人間を軽う見る様な者はおかげは受けられない。
 人間を軽う見たらおかげはなしと断言しとられる事を、その方は書いとりますですね。ですから私どもがいよいよ人間同志尊重しあい尊び合いが必要であると。いわゆる合掌し合ってゆく生活と言うか、人間同志が拝み合ってゆく生活、ここん所が最高のところでしょうね、人間同志が拝み合うていけれるという事。そういう生き方にならせて頂いたら、おかげがあるという事になります。軽う見たらおかげはなしですから、軽う見たらおかげはなしですから断言しとられる。
 ですから人間を尊重する。いわば人間を拝む。人間同志が拝み合うと言う様な境地が段々ひらけてまいりましたら、おかげがあると今度は断言してよい訳ですね。私はその人間を拝み合うとか尊重し合うとか言う事なんですけれども、例えば猫も杓子もねその神様やら仏様を扱うようないきかた、そう言う事ではないと思うですね。病人を病人扱いすると申しますかね、だからその病人を病人扱いすると言う事が尊重した頂きかたなんです。ところが病人でもないものを病人扱いしたらどう言う事になるでしょうか。
 これはおかしいですよね。若い者を年寄り扱いしたらどう言う事になりましょうか。これもやはりおかしいです。年寄りは年寄りとして丁重に年寄り扱いにしなければいけません。けれども若い者を年寄り扱いにしてはいけません。子供は親を親として扱う。親として頂く。親はまた子を子として見る。親が子供を親扱いしたらおかしいですね。どうもその辺の所をですね、間違いがあるように思うんです。なにかこうお道の信心が実意丁寧ということが、いうならばキャッチフレーズと言ってもよいでしょうね。
 まあもっと素晴らしくいうと、お道の信心の生命だというてもいいです。そういう大切なものだからとしてです、例えば私は年寄りをじゃない、若い者を年寄り扱いしよることはないだろうか。健康な者を病人扱いしとることはないだろうか。なにかしらんけども形の上ではえらい丁重にしているかのように見える。けどそれは間違ってると思う。病人は病人扱い。年寄りは年寄り扱い。若い者は若い者として扱う。例えば店主が使用人をやはり使用人扱いでないといかんと思う。
 それをなにかえらい丁重にそのまあお客さんを扱うように使用人を扱うとがいかにも実意丁寧であるような見方をする人がある。このへんは間違いだと思う。使用人は店主を店主として見、扱わなければならん。店主は使用人は使用人として、それは決して軽視するとか軽蔑するとか、いわゆる軽う見ると言う事ではないのです。立派な大人を子供扱いにする。これは軽視です。かというとまだ子供を大人扱いにするのが、人間を軽う見るなどと誤解があってはならない。
 ここんところに軽う見たらおかげはなしと仰せられるからこの御理解は、ひとつ本気で研究してみなければいけないと思うですね。どういう事が軽う見ないと言う事か、いわゆる人間は万物の霊長であると教えられとります。又は神の氏子として教えておられます。ここのところは私は、その基調となるところだと思うんです。根本的なところは神の氏子。いくら使用人であっても目下の者であっても、神の氏子万物の霊長。だからというて若い者を年寄り扱いにすることではない。
 だからというて若い者をいわば年寄り扱うような扱い方をすると言う事ではない事をしっていかなければならないと。病人は病人として扱わなければいけません。病人を病人扱いしないならば、それはもう軽視したことになりましょうね。年寄りを年寄り扱いしなかったら、それは年寄りを軽う見たことになりましょう。かというて誰でも彼でも病人扱いやら丁重にするのが本当の信心だという考えでです、元気な者を病人扱いするといったことはそれはおかしいと言う事になります。まあ言うならあるがままの姿としてみることだと言う事だと思うですね。
 今日私御神前で頂いたことは、私が或る人にゴルフを私はゴルフということのルールも何も知りません。けれども、そのゴルフを教えているところを頂いた。その方はねまだ余裕がないのです。金の余裕もないし時間の余裕もないのです。ゴルフというものは、これはまあ贅沢な遊びとされとります。それがただし覚えますとたいへん楽しいだけでなくて、沢山お金をもったいわゆる、いわば重役級の人達がです、体を動かさないからゴルフでもやってすこし健康のためにもゴルフをする。
 だから楽しいと言う事と健康になると言う事を兼ねておるですねゴルフというものは。実質的でもありゃまた楽しいと言う事にもなってる訳ですから、それはいっちょどうでもこうでもあんた覚えなさいというて、いわばその余裕のない人に私が教えておるようなところなんですね頂きましたのが。あぁ結局私の頂いておる信心をそのままこげんしなさい、あげんしなさいといいよるところじゃなかろうかと思う。
 これは私のギリギリの信心なんです。だからそれを見たり聞いたりして、あぁあげんなれたらよかろうと意欲してくる。そして今まで時間はないと思っておった。そういう稽古する資格はないと思うておったけれども、やはり時間もつくる。お金もつくると云うかね、お参りをさして頂く為には先ずお初穂捻出、お参りをさせて頂くためには先ず時間の捻出といわれております。ですからそういう捻出をもさせて頂いてでも教えて頂きたいという者にならこれは、いいわけなのです。
 時間もお金も捻出してくるのですから、けれどもその時間を捻出することが惜しい。お金は捻出することは惜しいという人に教えたって仕方がない。そんなことじゃないかと思う。ですからまあその人がです、現在浪人のような生活をして居るのですよね。今日私が頂いたその、だから先ずその仕事もなくぶらぶらしておるという人に対しては、先ず働く喜びとでも申しましょうか、金を儲ける手段とでも申しましょうか、そう言う事を教えなければならない。
 私は今日七十二節を頂いて、それとこれとはどういう関連があるのかと実は思いよるのですが、頂いたものですからお話しを聞いて頂いておりますがそう言う事もですね、重く見たり軽くみたりに通じるのじゃないでしょうか。時間もないお金もない人にゴルフを教える様な事ではちょっとおかしいと言うのです。昨日夜の御祈念に光昭がおかげ頂きました。御祈念そしてお話しをさせて頂きました。通じると言う事はどう言う事であろうかと言う事を一番口に申しておりました。
 人が人と通じる。通うと言う事はどう言う事であろうかと。自分が嫌な奴だなと思うとやはり相手にもそういう感じが移る。こちらの心が和やかで相手を丁寧に神の氏子としてみておる。人間は万物の霊長としての見方をしておる。そういう思い方であれば、それが相手に通うのだ。心と言葉心と態度、そういうのが心にはあんな奴と思いながら、いかに口にその人が喜ぶ様な事をいうても、それは本当には通じない。自分自身の心の状態というものをまあ検討しなければいけないという意味のことをお話ししておる。
 それで私が後を継いで私は暫らくお話しをさせて頂いたことでございます。昨日夕食を愛子のお給仕で食事をさせてもらっております時に、親子で話したことでございます。もう本当になにを頂いてもおいしい、おいしいそれを思わず口から出てくる。その時に本当に玉水の湯川先生が金光教は生きながら極楽じゃと教えられたげなが、本当に金光教ちゃ愛子ちゃん極楽ばいて私は申しました。
 例えば夕食してるので食物のこと、そこに百味の御食が並べられておるから、私が極楽極楽、百味の御食という百味の御食を頂いておるから、私が極楽と実感しとるのじゃない。昨日は茶漬けに、胡瓜と茄子の浅漬けが出ておりました。それがもう本当においしいというよりも有難かったんですよね。私は百味の御食を頂くと言う事はね、有難く頂けることだと思う。おいしく頂けると言う事もありますけれども、ただおいしいだけではなく有難く頂けると言う事。
 二十何年前のあの修行中の時分にもうお粥さんでもよい頂けたら、いわば安心して頂けたら、まあ両親子供に腹いっぱい頂かせられたらもう何でもよい。そういうところを通らせて頂いておるおかげでね、私はお粥さんを頂いても、いうなら茶漬けでお漬物で頂かして頂きましても、それがおいしいだけでなく有難うして有難うして成程これが食うものを前にして感じる極楽とはこういうことであろうと感じるのです。そしたら愛子が申しました。それを本当に実感として受けられ。
 お父さんがあげなこといいよんなさるばってん、本なごと極楽じゃろかでなくて、愛子自身が私に食事の相手してくれながら、本当にお父さんそういう境地を開かせて頂くということ私どもは未だ未だどれだけ修行せんならんかわからんとこういうのである。事実そうですよね。私と同じもの頂いてるのですもの皆、家族中の者、修行生の皆さん子供達も皆私と同じもの頂いとるのです。ですから私が感じておる程しに極楽を果たして感じておるかどうかと、但し成程金光教の信心は生き極楽じゃと仰る。
 それが極楽という境地をひらくということは、未だ未だ私どもにはいつのことやらわからんと、同じものを頂きながらそれである。自分の体のどこかにダイヤモンドが隠されておる。誰にでもあるのである。けれどもそのダイヤモンドが自分のどこにあるか知らないのである。百万円なら百万円をちゃんと懐に入れてある。けれども懐に百万円が入っておるということを気が付かない。
 だからもうそれは持たんものも同じであります。そうでしょうお互いがね、万物の霊長としての値打ちを、神の氏子としての資格を私どもは頂いているのである。ですからこれが神様じゃろうかと、自分で自分の心が拝められるようにあると言う事は誰でもそう頂かなければならんのだけれど、私のごと不幸せのものがあるじゃろうかと思うたり、この世は苦の世だ苦の世界だと思うたりしておる事ではなかろうかと思う。
 先日から四、五日前でした。或る晩これは愛子の言う事です。夜空を眺めさして頂いておったら、何か心の中から切なるものが湧いてきた。親に会いたいそういう感じであった。それは勿論肉親の親ではない。それは神様などという形様でなくて、本当に天地の親その親に会いたい、親と会って話がしたい。そういう実感でこの頃この四、五日そういう事を感じるとこういうのである。あぁ有難い事だなぁと親神様と一体になる、ここはもう理屈じゃないのである。もういつでも神と共にありと口ではいいますけど。
 その神と共に仕えていないから、極楽を感じ得ないのである。愛子ちゃん、あんたは神と共にあるもう一歩手前まで行っとるとばい。親神様に対するそういう憧念心、憧れの心が湧いてくるという事は尊いことだね有難い事だねというていました。そこでです人を軽う見な。軽う見たらおかげはなしと。軽う見ちゃならん。軽う見ちゃならんというていうならば要心して、するというのではなくて、私はそれに反対に尊重し合うと言う事、には先程からいろいろ例をもって申しましたが、病人には病人扱い。
 年寄りは年寄り扱い。それを健康なものが病人扱いして折る様な事が丁重にしとるような思い方がある様に思う。健康なものを病人扱いしたり、又それとは反対に大人を子供扱いにするような生き方はこれこそ軽視である。軽く見ておるのである。というて店主は使用人に対して使用人扱いをさせてもらわねばならん。させて貰う事かと言う事がと大変その辺のところがむつかしい。
 だけど難しいそういうところを解決するものは、結局我と我が心が拝めれると言う事、人を合掌する。人を拝むと言う事が人を尊重することであるならばです、ただ相手を拝み散らすと言う事ではないのである。自分自身が拝めれるということ。そこから相手が自ずと拝めれて来ることになる。そこにいよいよ人間を人間として見た、真実の姿、本当の姿がそこにある。
 人を軽う見たらおかげはなしと断言しとられる。その断言を裏返したら、人を尊重していけばおかげがあると言う事なのだ。尊重すると言う事は拝み合うと言う事。拝み合える私になると言う事。相手を拝めれると言う事は自分自身が拝めれると言う事。そういうところまで信心をです、高めて行くというかそこを焦点として目指しての信心をさして頂くところから自ずと相手を軽う見らんで済む信心者の態度、姿勢というものが自ずと出来てくるのではないでしょうかね。
   どうぞ。